技に夢を求めて(8/13)PDF

和田龍児

MAP残照

今を予期した野心的提案

世界的なメガ・コンペディジョンの時代を迎えて、企業環境を取り巻く状況は非常にきびしい。

例えば、情報環境の整備で生産環境はたしかに急激に改善されてきたが、電子メールや管理データ収集、ネットワーク構築だけでは大した効果は期待できないと思う。

企業は、市場環境や社会情勢、地球環境、製造技術の動向など、自らに向けられたありとあらゆる分野のニーズの総体に対応した経営戦略を実行していかざるを得ない。そのための経営システムの構築で情報ネットワークの存在は大前提であるし、また、経営の在り方も経営組織の構成も当然、従来の多階層経営からネットワーク祭の経営組織への変革が必要となる。

生産現場の状況から言えば、大きな生産変動に対応しにくい過去の大艦巨砲型の統合型、中央集権型生産システムから、より柔軟性のある分散管理型、地方分権型の生産システムヘの変革が望まれる。ここに来てようやく工場用の標準化されたオープン・ネットワークの必要性と重要性とが浮かび上がってきたわけである。

そこで思い出すのは以前、筆者が関係した MAPの命運である。ここで言う MAPとは地図のことではない。工場自動化のための通信規約を意味している。情報・通信の標準化推進は、いまや世界的にも大きな課題となっている、

普段、われわれが使っている家電製品などでは、プラグも使用電圧も周波数もおおむね全国共通で、ユーザーは好みの商品を自由に選択・購入することができる、MΛ Pは FAや CIMの世界でマルチペンダー環境を何とか実現しようとした野心的な提案だ。

プロトコル公開の英断

MAP(Manufacturing Automation Protocol)は、工場自動化のためのオープン・ネットワーク用プロトコルとして、異機種間の相互接続性・相互運用性などの共用性を目的に開発、提唱された技術である。国際標準化を目指した FA用 LANとして知られたが、残念ながらその後の展開は、当初予想したほどの広がりを見せず、衰退の運命をたどることになった。

1980年代の日本の小型車の急激な進出に危機感を抱いた米国の自動車メーカーは、先端企業の買収や生産現場の革新のための最新鋭生産設備の導人にきわめて熱心であった。なかでも GM社は積極的で、生産工場の自動化の切り札として通信プロトコルの統一化を進めていた。そのスポンサーは当時の GM会長ロジャー・スミス氏だった。

彼の 10年間の会長在籍時の業績についてはいろいろな見方があり、マリアン・ケラー女史の『GM帝国の崩壊』(草思社)やアルバート・リーの『GMの決断』(ダイヤモンド社)のなかでは、かなり辛辣な批判がなされている。これらの著書等では、積極果敢な先端産業分野の企業買収と巨額な自動化設備投資路線を推進したが、いわゆる財務畑出身者として、製造現場への理解不足とヒューマン・ファクターへの配慮不足が問題だった、としている。

たしかにストラディヴァリウスを買ったからといって、だれでもアイザック・スターンのようにバイオリンが弾けるわけではない。

しかし、スミス氏の業績の1つには GMによる MAPの提案・開発とその公開があったのではないかと思う。社内的な事情があったにせよ、知的財産権の主張なしにプロトコルを公開した英断は評価されてしかるべきだ。

てんやわんやの事始め

以下では、日本における MAP推進の足取りについて述べてみたいと思う。(財)製造科学技術センター(MSTC)の前身である(財)国際ロボット・エフ・エイ技術センター(IROFA)が正式に発足しだのは 1985年の夏のことである。

当時、筆者は「レーザ応用複合生産システム研究組合」の技術委員長を仰せつかっていた。研究組合の構成は、理事長が久野昌信氏(故人・元東芝機械社長)、副理事長が通産省出身の上田満男氏、専務理事が同じく堀江彰氏、運宮委員長が大山信氏(元スズキ副社長)であった。

この研究組合に、人を介して米国の自動車メーカーGM社が提唱していた前述の MAPを、ユーザー主体の世界規模の連合組織を結成し、啓蒙・普及活勁を展開したいので協力してほしいとの意向がもたらされた。公式にはこれがわが国の MAPの事始めであった。実は、ここに至るまでには曲折があった。かなり以前からさる学術団体が中心になり、GM社に働きかけてロ本での MAP講習会を開催しようとの計両があった。講師陣をはじめ、日本への旅費・交通費その他一切は GMが負担するという好条件であった。

というのも、MAPそのものは前年の 1984年に正式に MAPユーザー団体が結成され、7月の NCC'84(National Computer Conference)のデモンストレーションで華やかに一般に登場したばかりだったからである。

ところが、そうこうしているうちに講習会開催計画は、直前になって開催不能の異常事態に陥ってしまった。GM社側から、単なる勉強会の講習会では駄目だと釘をさされた上に、参加企業名や出席メンバーリストの提示を求められたからである。

CIMや FAに関心のある技術者や研究者を主体に、勉強会形式の計画を練っていた当事者は、GMの意外な要求と事態の急変に、まさに飛び上がらんばかりに驚いたものである。そして、鳩首、対策を練った末に、わが研究組合に「引き受け団体の推薦を通産省に取り次いでくれないか」という相談がもたらされたという次第である。

相談を受けて研究組合の方々に事情をお諮りしたところ、今後の日本の産業界にとって、たいへん重要な工場自動化の情報通信技術に関する最新知識を紹介するよい機会であり、ぜひとも実現すべきではないかとの結論に達し、通産省にも協力をお願いすることになった。

幸いにも当時の通産省の担当官井上邦夫氏が直ちに動いてくれて、問題の打開へ前進が始まった。だが、なにせお盆休みを中心にした長い夏季休暇直前の7月末のことである。関連企業に協力をお願いするにも、物理的、かつ時間的に完全に手遅れであった、実現方法は、それこそ各人の人脈を頼っての電話作戦以外には、百パーセント不可能な状況にあった。

しかも引き受け組織としては当然、IROFAが最適任だが、ほんの1ヵ月前に発足したばかりの、出来立てのホヤホヤの組織だ。前面に立って動くのは無理というもので、結局わが研究組合が当座は引き受け組織にならざるを得ない羽目になってしまった。てんやわんやである。

前出の大山運営委員長から、そのころ人気全盛のアニメ『宇宙戦艦・大和』になぞらえ「戦艦大和はもう出発したんだから、やるきゃないよ」と、妙な激励を受けたことが懐かしい。

こうして関係各位の必死のご努力が実を結び、お盆明けの MAP-Japan Meetingは、会場の日本消防会館に 400名余の聴衆を迎えて、大成功裏に完了した。関係者一同、ホッと胸をなで下ろしたものである。

その年 11月に、MAP啓蒙活動などの関連事業は正式に研究組合から IROFAに移管された。着任早々の通産省出身の田村忠男常務理事(現日本ロボットエ業会専務理事)を中心に、積極的な MAP啓蒙推進活動が始まったのである。

出生があまりにも早すぎた

わが国のMAP普及の活動は、その後紆余曲折はあったが、関係者各位の熱心な協力があり、順調に展開した。

MAPは、LANの基幹ネットワークとしては過不足がないものの、フィールド・ネットワークとして直接 FA機器等に接続するには、重装備すぎるところがあったので、MAPの簡易版として、より低価格のミニMAP相当の FAIS(Factory Automation Interconnection System=工場自動化のための相互接続システム)が提案された。

FAISは、92年にミニ MAPとして国際的にも認められ、国内 27の企業の参加を得て、公開実証実験やデモが行われた。また、日本で研究開発されたはじめての岡際的標準ネットワークとして多くの関心が寄せられ、その発展が期待されたのである。

さらに、通産省の肝煎りで MAP認証のための MAPテスト・センターが(財)機械振興協会技術研究所内に設置され、その活動が国際的な注目をあびた。

しかし、その後の世界的な経済不況や、GMスミス会長の退任と期を同じくして、肝心のGMが推進母体から脱落した事情も加わって、MAPの進展は遅々として進まず、運動は停滞を余儀なくされるに至った。

最近のオープン化推進の流れを見るにつけ、出生があまりにも早すぎた悲劇としか考えられない人の評価は、棺桶の蓋が閉じられるまで定まらぬというが、後年の歴史家は元 GM会長スミス氏を 20世紀末の工場自動化の先覚者として高く評価することになるかもしれない。