技に夢を求めて(4/13)PDF

和田龍児

テクノロジー・ワンスモア

エンジニアよ自信を持て

技術と産業の未来に悲観的な予測が横行するなかで、最近、テクノロジー・ワンスモアという言葉が再認識されつつあるようだ(西村吉雄+未来技術研究会、丸善ライブラリー:1997)。 テクノロジーヘの応援歌、エンジニアよ自信を持てということなのだろう。

感傷的、情緒的な一部の極端な反技術主義的な社会世相に、人々を幸せにするための技術復権の必要性をアピールした言葉でもある。

人々の幸せとは何かとの修辞学的詮索はさておき、最近の動燃の情報秘匿事件や日本海の重油流出事故、HIV訴訟と、技術に関連するあまりにも不幸な事件が続き過ぎた。

短絡的に技術が怪しからんとわめいてみても、問題はいっこうに解決しない。原子力発電にしてみても、今すぐにこれを全面禁止することは、現在のエネルギー消費動向からして暴論としか言えず、むしろより安全性の高い発電サイクルの構築こそが先決の急務であるはずである。

しかし、これは技術的観点からの技術者的発想であろう。実はここに人間と社会と技術体系とが相互に関連する複雑な因果関係が存在するのである。

最後は人類の本源的な叡知をひたすら信ずるしかないのかもしれない。

A.ノーベルはダイナマイトの発明者としてよく知られた工学者だが、爆発事故の多発したニトログリセリンを携帯可能な簡便な形にまとめた彼の功績は高く評価される一方で、戦争にも利用されて数多くの死傷者を出す結果となった。

このような事情から、彼の遺産は人類の幸せに役立つ貢献を成した人々に贈られるノーベル賞として生かされることになったわけだが、身近な前述の不幸な諸事件を含めても、一般社会に及ぼす技術の影響と結果の大部分は、実際にはそこに携わった人々と組織の問題意識によってもたらされる部分が大きなウェイトを占める。

大切な何かが失われた...

ここで、企業人としての筆者の拙い経験を交えて、若干の駄弁を弄することをお許し願いたい。

「技術者は一芸に秀でるべし」と言ったところで、技術を形成するのもそれを応用するのも、すべて人間である、人間的側面などはどうでも良いというわけに行かぬのは、当然のことである。相撲の心・技・体の精神に通じるものがある。

結局、最後は人間のもつ「矜恃」や「品性」等の人間性がものを言うことになると思う。

若いころはともかくとして、係長、課長、部長、役員と、企業内での地位が昇るに従って、企業で働く技術者たちには“なくて七癖”の種々の棲息スタイルが出来上がっていくようである。人間性が坦問見られるのは、何もゴルフや酒席に限ったわけではない。

以下では、堕落した典型的技術者群像をパロディー風に記してみよう。もちろん、多くの技術者たちには無関係な話ではあるが、筆者白身の類型がその中になしとせぬのは、全くの不徳の致す限りと言わねばなるまい。

  • 一見、物分かりが良さそうな風だが、頑固で人一倍自尊心が強く、妥協しない。それでいて、自己の利害や体面にきわめて敏感で、保身のためとあらは驚くほどの速さで行動する仁。強気を助け、弱きを挫くタイプ。
  • 人の意見を最初から聞かず、一方的にまくし立てて自信満々だが、結果が悪いとすべて他人や他部署の責とする厚顔無恥の仁。下手をするとお客や社会情勢のせいにしてしまう豪の者。
  • 部下の意見にいちいちケチをつけねば気が済まず、自分がその筋の権威者であるかのごとき顔をしたがる仁。そのくせ、部下への指示は不明瞭で要領をえず。人徳喪失のマネージャー不適合型。
  • キーワード1つで音声朗々と持論らしきものを延々と展開するが、自分の意見やビジョンが皆無な仁。資料はすべて部下に作らせるので迫力なし。見る人は見ているということが分からない世間音痴型。
  • 社内でしか通用しない情報を武器に、社内会議では積極的に発言するが、社外や同業者との会合では一切意見の表明や発言なしで、メモ魔に変身して帰社後はそのメモをフルに活用する器用な仁。内弁慶・外味噌型。

etc--------。

ここで筆者の言いたいことは、企業小説の登場人物のキャラクターについて議論しようとしているのではない。仮にも企業の各階層で活躍する第一線の技術者諸君が、事情のいかんに係わらず前記のような行動パターンを取り続けねばならぬ情けない企業環境にあるとすれば、肝心かなめのテクノロジーは滅びてしまうだろうということなのである。

これは、極端な減点主義経営の成果第一主義の企業体質の成せる技だが、企業経営者の姿勢にも責任の一端なしとは言えまい。部下は上司を3日で見抜き、上司は部下を知るのに3年かかるとは、まことに至言であると思う。

いくら、エンジニアよ自信を持てと言ってみても、企業社会の実体が旧態依然としていては、テクノロジー・ワンスモアならぬ、テクノロジー・グッドバイに成りかねぬことを恐れるのである。

「嚢中の錐」を育てよう

30年も前の話だが『嚢中の錐』という箴言を教えて下さったのは、京都大学でご指導いただいた佐々木外喜雄先生(故人)であった。錐を袋のなかに入れておくと、すぐにその先端が外に突き出ることから、有能な人物は、多くの人の中にあっても、自然とその才能によって頭角を現す譬えである(趙の平原君の客、毛遂の故事による。史記・平原君伝)。

この箴言は、企業社会でも、とくに技術者集団のリーダーたる者は、有能な嚢中の錐の部下に気づかねばならない。そして密かに選別し、期待をかけて育成していかねばならないことを教えていると思う。期待をかけてということは、いたずらに甘やかすことではない。愛情を以て、厳しく鍛えることでもある。スポーツ選手の育成にも似ている。素質と鍛練がものを言う。

バブル経済崩壊後の日本の産業界、なかんずく製造業界は、最悪の経営環境のなかで、塗炭の苦しみを味わってきたことはご承知のとおりである。そのために、なりふり構わず企業収益の改善へ組織のスリム化、人員の合理的再配分、賃金昇給停止、残業制限等々のありとあらゆる諸施策に取り組み、血の惨むような努力を払ってきた。

その成果も徐々に出つつあり、また最近の為替相場の状況も追い風となり、明るさも垣間見られるようになってきた。全くご同慶の至りである。

しかし、ここ数年の間に、企業内のテクノロジーの在り方についていえば、何かしら大切なものも失ってしまったような気がしてならない。それが何であるかは一言では言えぬが、技術者集団の中の求心力の喪失、かもしだす一種独特な技術信仰の香り、あるいはオーラが、ある時期を境に忽然と消失してしまったような気がしてならないのである。

筆者が企業の研究開発担当の役員を拝命当初のことであるが、生意気盛りの自分に対して、ある宴席で協力会社の某社長から「桃、栗、三年、柿八年と言いますが、貴方は“柿重役”で頑張って下さい」と、妙な激励を頂戴したことを鮮烈な印象とともに記憶している。

ありていに言えば「貴方のような若造は、8年くらい苦労せねばものにならないよ」との暗喩なのか、「8年くらい、じっくりと時間をかけた将来の新製品を開発して下さい」という励ましなのかは、今は定かではない。

しかし、最近の一年草的、目先追求型の新製品開発花盛りの実態を見るにつけて不思議に思い出される。

当時の上司に「技術の促成栽培は不可能です。企業で根づく本当の技術は、苦しくとも自家栽培でなければなりません。予算も人員もその分は余分に見て下さい」と、青くさい建白書を提出した記憶が残っている。

そんなわがままをどこかで許容する大人の雰囲気があったように思う。ともかく奴にやらせてみようかという太っ腹な上司が棲息できる恵まれた環境にあった。決して昔がよくて、今が劣悪というわけではないけれど、なぜか毅然とした態度の先輩技術者諸氏の雄姿が目に浮かぶのである。

経営トップの役割

ところで、人間の知識には、言葉で表現したり、数式で記述できる明示的な知識と、どうしてもそれができないが、何となくこうした方がよいのではないかとか、何となくある考えがボヤーと頭でまとまり、創造される知識がある。

難しい言葉でいえば、前者を明示知(Explicit Knowledge)、後者を暗黙知(Implicit Knowledge)と言う。この分野の世界は、大脳生理学や心理学、論理学等の境界領域にあり、完全に解明されていない未開拓の分野である。

すべての現象や事象があらかじめ予測でき、数値的にも確定できるケースは大変に少ないものである。実際の経営では、よく「いくら儲かるか」とか「いくら売れるか」とかが大きな経営判断基準になることが多いが、本当のところは神のみぞ知るというのが真相だろう。

新製品開発にしろ、新技術開発にせよ、担当者は最初から失敗するつもりで仕事をしているわけではない、新製品や新技術開発での企業トップの大きな役割は、技術の可能性を最後まで信じるか、技術者集団を信頼するかのいずれでしかない。

経営トップ諸氏の耳には、果たしてテクノロジー・ワンスモアの声は聞こえてきているのだろうか。